織田信長 父 織田信秀について徹底解説!! 尾張の虎と呼ばれた男。
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写真の右の男性が今回、徹底解説をする織田信長の父「織田信秀」。尾張の虎とも呼ばれた男。あの独創的な織田信長を育てた「織田信秀」はどのような人なのか。年号と一緒に見ていきましょう。
織田信秀について
(永正8年)1511年生まれ 尾張国「おわりのくに」(愛知県)出身
父、織田信定 母、含笑院殿
人物像
- 優れて頭をもっており、初めの低い地位から尾張国を代表する将軍となった。
- 負けづ嫌いと強靭な精神をもっている
などなど、織田信長を育てた父は、やっぱり「子は親に似る」と言います。信秀のすごい所は、資金の貢献が挙げられます。朝廷に大量の銭を寄付することで尾張国を圧倒する地位まで上り詰めたといいます。
では、その織田信長の父「織田信秀」の生涯を年号にそって見ていきましょう。
年号
室町時代
1511年 織田信秀、尾張国(愛知県)で誕生 (0歳)
父、織田信定 母、含笑院殿
当時の、信秀一家は守護代織田氏の一族で「守護代、織田大和守家」の一角で、弾正忠を称した家だったのです。父の信定が勝幡城を築いたと同時に勢力を拡大していきます。
1526年 織田信秀、家督を継ぐ (15歳)
具体的には、1526年4月~1527年7月にかけて、父の信定から家督を継ぐ。当時、尾張国(愛知県)には沢山の勢力が存在していた。家督を継ぐのにまもないまま、1532年に織田氏達の争いが起きるがすぐに講和。
1533年 連日蹴鞠会を開く (22歳)
1532年に起きた争いを機に自らの威勢を表すために京都から飛鳥井雅綱(蹴鞠の宗家)を呼び、沢山の群衆と共に清州城を盛り上げた。
1534年 織田信長が誕生 (23歳)
父、織田信定 母、含笑院殿の間で、織田信長が誕生。信長の経済政策の裏には父、信秀の育ちの影響があると思われます。
織田信長の徹底解説をしている記事があるので、年号と共にご覧ください。
1538年 織田信秀、愛知郡に勢力を拡大。 (27歳)
今川氏豊から那古野城(愛知県名古屋市中区)を謀略をし、愛知郡に勢力を拡大する。※那古野城は廃城となり、現在の名古屋城に新しくなる。
そこから点々と居城をするといった戦国大名として他とは違う行動をしていく。
1539年 信秀、古渡城を築く (28歳)
津島に継ぐ、二つ目の熱田を支配をする。
1540年 朝廷に協力的にお金を回す。(29歳)
熱田と津島で経済力を備えて、経済的に伸長し、朝廷に献金。また1541年にかけ伊勢神宮遷宮のため、材木や銭700貫文を献上した。さらに、1543年には朝廷に内裏修料理として400貫文を献上。
と朝廷中心の体制にあった。
1544年 加納口の戦い (33歳)
加納口の戦いとは
1546年 織田信長に那古野城を譲る (35歳)
息子にあたる織田信長に那古野城(現、名古屋城)を譲っている。親子の関係にかなりの信頼関係があったことがわかります。
1547年 信秀、岡崎城を攻め落とす。 (36歳)
1547年に岡崎城をもっていた松平広忠(徳川家康の父)を降伏させた。家康が人質になっていたから事が起きたともいわれています。
同年 第二次小豆坂の戦いで敗北 (36歳)
小豆坂の戦いとは
三河国額田郡小豆坂(現在の愛知県岡崎市字羽根町字小豆坂)で行われた合戦。今川氏、松平連合と織田氏の間での戦い。
※第一小豆坂の戦いもあったといわれているが、おきたのか論争がされている。
これにより、守護代大和守家とも悪くなり尾張を代表する「斎藤氏」と和睦を求めるようになる。それには条件があり、「織田信長と斎藤氏の娘(濃姫)の結婚」を要求する。
1552年 末森城で死去 (41歳、42歳)
死因は、疫病、流行病と言われている。
葬儀には、僧侶300人を集結させるほどの大きいものになった。
まとめ
年号と一緒に「織田信秀」を見ていくといくつかの事がわかります。
この特徴たちは息子の織田信長に受け継がれていることがわかります。
尾張国を統一を寸前に織田信長に受け継がれています。織田家を尾張国統一まで導いたのは「織田信秀」の行動にあったことがわかってきます。
織田信長はもう教科書には欠かせない人物ですが、織田信秀はそこまで知られた人ではありません。この機会に知っていただけたらなと思っています。