「日本史シリーズ」「織田信長」について徹底解説!!天下統一があと少し、何があったのか
みなさま、自粛中でかなりしんどいと思います。わたしも自粛中でかなりキツイ思いをしている中、今回初めての「日本史シリーズ」をこれからやっていこうと思います。2010年朝刊ジュニアシリーズ「マンガ日本史」を参考文庫として、「織田信長について」解説していきたいと思います
はじめに
2010年に、朝日新聞から出版されていた「週刊マンガ日本史」から、ジュニア向けのものとなっています。織田信長の他に50人の人物を週刊されており、歴史について深く知れるものとなっております。(現在はないと思われる)
織田信長について
1534年6月23日生まれ 尾張国「おわりのくに」(愛知県)出身
父、織田信秀 母、土田御前
特徴(イエズス会宣教師のルイス、フロイスの「日本史」https://ja.wikipedia.org/wiki/フロイス日本史」
- 背丈は中ぐらい、やせ型
- 極度に戦いが好き
- 占いや迷信を全く信じない
- すぐれた理解力と判断力をもつ
優れた独自の思想をもつ、いわば「天才」。天下統一を目の前にして、成し遂げられなかった「織田信長」ですが、この方は変わった人であったと言われています。町の人からは「大うつけ」(愚か者)と呼ばれていたのです。
ある一説によれば「奇抜な服装で街をうろついたり、町人たちと一緒に騒いだりと、非常識な行動を取っていた。また(父、織田信秀)の葬儀に正装をせずに現れ、父の位牌に抹香を投げつけた。」
と、父の葬式に常識とは、かけ離れたことをしたと言われています。その「織田信長」の人生(年表)を詳しく見ていきましょう。
年表
室町時代
1534年 織田信長、尾張国(愛知県)に誕生 (0歳)
1551年 織田信長、家督を継ぐ (17歳)
父、織田信秀の逝去。死因は疫病、流行病といわれている。
ここから、織田信長の天下統一の挑戦が始まり。
1560年 桶狭間の戦い (26歳)
桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)とは
駿河国「するがのくに」(静岡県)の大大名、今川義元(いまがわよしもと)と尾張国(愛知県)の織田信長との戦い。
織田信長が戦に勝利。
知識
織田軍、2千人余りに対し今川軍2万人近くいたのに関わらず、織田軍の勝利。それには、織田信長の頭の良さがあると考えられます。
攻めるにあたって、迂回して襲撃したと言われていますが、「信長公記」(太田牛一著)によれば、正面突破説が濃厚と言われています。織田軍が迂回を予測して、軍事力を割くにあったって正面の人数が少ないと考え正面突破を図ったと言われています。
1562年 織田信長と徳川家康が同盟を結ぶ(清州同盟) (28歳)
清州同盟とは
桶狭間の戦いで、今川氏の敗北により独立をした徳川家康(松平元康)と織田信長が同盟を結ぶ。
1567年 美濃加納に楽市令を出す。 (33歳)
楽市令とは
別名、楽市楽座。
いわば、織田信秀の領域で自由に商売ができる経済政策。
織田信長が、美濃国(岐阜県)を攻略をして、織田家の領土になる。
1568年 足利義昭を引き連れて上洛する。 (34歳)
上洛とは
主に、京都にいくこと。
1570年 姉川の戦い、石山合戦が始まる。 (36歳)
姉川の戦いとは
織田、徳川軍と浅井、朝倉軍との戦い。
石山合戦とは
顕如(浄土真宗の僧)率いる宗教的武装勢力 と 織田軍との戦い。
1571年 比叡山延暦寺を焼き打ちにする。 (37歳)
現在、滋賀県大津市にある延暦寺から兵4千人の宗教勢力が、織田信長に戦国統一に危険だと思われ、焼き討ちにした。
1573年 15代将軍の足利義昭を追放する。(39歳)
信長のやり方に不満を持った義昭が武田信玄、朝倉義景、浅井長政などと同盟を結び対抗する。これにより、京都から追放され室町幕府が滅亡した。
安土、桃山時代
1574年 伊勢長島一向一揆を制圧する。 (40歳)
伊勢長島一向一揆とは
石山合戦とほとんど変わらなく、伊勢長島(伊勢国と尾張国の境界)地域で、本願寺が起こした反発。
知識
一向一揆とは
浄土真宗の信徒、農民、武士、商人などが、権力に対して反発を起こすこと。
1575年 長篠の戦、越前一向一揆の鎮圧。
長篠の戦とは
織田、徳川軍と武田勝頼との戦い。
1573年の足利義昭が武田信玄と他と同盟を結んで対抗する。脅威を振るう武田信玄が徳川国に侵攻するも急死。これに対抗するように徳川軍が反攻する。後継者の武田勝頼が
戦いを継続させ徳川軍の長篠城で決闘をする。
知識
織田信長は、このころ使うことが少ない鉄砲を使いこなし戦いに勝利しました。有名なことでは、「三段撃ち」でありますが色々な説が立てられています。
三段撃ちとは、
一発撃ってしまったら次の発射に時間がかかります。これでは、襲撃には耐えられなとされ、三段に並び前線が撃ったら、中線が撃つ、とローテーションをして戦う戦法です。
でも現在、「三段撃ちには、足りない銃の数」などなど、不可能説も立ててあるのです。
1576年 安土城を築く (42歳)
城は、その将軍の権力を指すといっても過言ではないです。現在、跡地しか残っておらない「安土城」ですが、かなりの大きさだと言われています。観光もできますので、滋賀県にお越しください。
1577年 安土に楽市令を出す。 (43歳)
楽市令とは、
織田信長のシンボル「安土城」に町に楽市楽座をだし、経済政策を豊かにした。
1580年 本願寺の顕如と講和、石山合戦終わる (46歳)
ここまで、長く戦いをしていた「石山合戦」は終了に終わり、宗教勢力の僧、顕如と織田信長は講和をする。大阪から退去させた。
1582年 本能寺の変 (48年)
本能寺の変
織田信長が、中国地方を支配する毛利氏を倒すべく向かっている途中に、京都の本能寺に滞在したところを知った明智光秀が襲撃。 自害する
わたしは、この印象しかないほど有名な話で天下統一を目の前にして成し遂げれなかった理由がこれです。
まとめ
このことから分かるように
- 独断的でまとめる力がある
- 判断力がものすごい
- 天下人とおそれるほど
染まることのない「織田信長」だったことが歴史を見ていけばわかります。もし本能寺の変がなければ本当に天下統一を遂げていたかもしれません。
今回は「織田信長について」を紹介しましたが、もっと他の人物にも触れていこうと思っています。もしよければ。Twitterフォローと読者ボタンをポッチとお願いします。